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女性のための「身体教養のススメ」~Botaniaにむけて~


女性の身体は、霊的な智慧に満ちた存在です。生涯現役は勿論、輪廻転生にも関わる身体教養への道を提案します。
by k56422
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5:スピリチュアリズムとの出会い

私たちが提案している身体教養は、仏陀の説かれた「色心不二」という肉体観を基盤として成り立っていますが、実は「心」とは何か?という大切な定義が、なかなかに難題です。

この「心とは何か?」と同等に「人間とは何か?」「人生とは何か?」という命題があります。そして現時点で、それらは全て「学問的に未だ定義されていない命題」です。
これらの命題はそもそも人類最大の命題で、ソクラテスやプラトンのような偉大な哲学者の探求も、今では古めかしい説としか扱われていません。
その理由は、ソクラテスもプラトンも霊や魂とよべる存在の実在を説いているからです。当然、ソクラテスやプラトンの探求は、現代の学問的対象から外されています。

学問対象から外されるということは、教育現場では、子供たちが霊や魂という存在を知る機会がないということです。
そうであっても、子供たちは必ずそうした情報の一端をキャッチします。子供たちは、そうした情報に対して鼻が利くのです。ただ残念なことに、現代人として大人になるために、この能力を封印してしまうようです。


勿論私の子供時代も、学校教育が霊や魂の存在を教えてくれたわけではありませんでした。ただ、当時の大人たちの風習や会話の中に、リアルに感じ取ることのできる霊や魂の存在感がありました。
その上、当時の少年・少女向け漫画雑誌には「読み物コーナー」という企画があり、そこでは「UFO、心霊現象、不思議話」など、大人の読み物では掲載されないような面白い情報源がありました。
そうした中に、当時の私がはっきりと記憶した一枚の白黒写真があります。気品漂う白い外国女性の幽霊と、それを取巻く紳士然とした学者たちの写真です。

私は、幸いにも「変な子」が成長して「変な大人」に成りました。
そのお陰で40歳にも近い頃、スピリチュアリズムの書籍の中で”その写真”と再会しました。”その写真”は、19世紀当時の霊媒(フローレンス・クック嬢)によって降霊された、心霊実験の中でも有名な一枚で、「ケイティ・キング嬢」と呼ばれる金髪・青い目の女性霊の写真でした。
このケイティ嬢の写真を掲載した書籍で、「心と体の繋がり」について私の直感していた方向性を再確認したことを覚えています。


# by k56422 | 2022-07-23 00:10 | 身体教養・旧版 | Comments(0)

4:ブレス

「ブレス」は英語圏のbreath(呼吸という意味)ですが、私たちが一年余りを暮らした研修先のボルダーという街では、そのbreathに付随する具体的なイメージが、日本の呼吸と大きな違いがありました。


一般的な現代日本人の私たちが「呼吸から連想すること」と訊かれれば、「肺による酸素と二酸化炭素のガス交換」と思う人が多いのではないでしょうか。
「その空気には何が含まれているのでしょう」と問われれば、酸素や二酸化炭素以外の分子名を思い出す方もいるでしょう。


英語圏の全てが同じではないかもしれませんが、少なくとも私たちが実体験したbreathは、空気そのものが「in」私たちの中へ入ったり、「out/ / ex」私たちの中から出て行ったりしているというものでした。更に、「air」空気には大いなる神の恩寵や光がバイブレーションとして遍満しています。
ですから「air」が大いなる神から全ての人に与えられているものとして、私たち人間の体に入ったり出たりするのです。

この「air とbreath」の宗教的発想に出会い、そうした文化圏の中でブレスを体験できたことは、現代日本の呼吸しか知らなかった私に、新しい方向性を与えてくれたことを覚えています。



一方でそのボルダーでは、ブレスに関わる身体的問題をもつ方々にも出会いました。その方々は、偶然かもしれませんが、ハートが象徴する心臓を中心とした胸にトラウマをもっていました。
現地でのトラウマには、日本人がイメージするような病的な症状という意味合いは薄いのですが、それでも精神的な原因で同じ箇所で同じような身体的苦しみが繰り返し再現する状態でした。

そしてこれも偶然かもしれませんが、彼らは敬虔なクリスチャンの母をもち、その母を敬愛していました。ただ彼らの母たちは敬虔であるがゆえに、大切な自分の子供たちが何か失敗や不適切な事をすると「今も、あなたの罪を償うために、イエスは十字架にかかった」と強く深く教えていました。

幼い心に、大好きな母親の言葉は、とても悲しく辛い体験だったと話してくれた人もいました。そして、初老にさしかかろうと、幸せに微笑んでいようと、胸の苦しみという身体的実態感は、胸への刺激とともに肉体に再現していました。
無意識的な罪悪感で縛られた彼らのブレスは、自由ではありませんでした。
ただそうした彼らが記憶とともに流す涙が、彼らを癒すことを今も信じています。
日本ではなかなか出会うことのない宗教的体験でした。


自分自身の体験だけでなく、その後の20年ほどの貴重な体験は、心と体に関わる幾つかの原理原則や法則性といわれるものを気付かせてくれるようになりました。
それが「色心不二/心と体は繋がっている」と「色心不二/自分と肉体は別の生命だ」という仏陀の言葉に集約されていきました。



# by k56422 | 2022-07-19 22:56 | 身体教養・旧版 | Comments(0)

3:呼吸とブレス

洋の東西を問わず「呼吸法」とよばれる宗教的修行方法があります。
とりたてて日本では、精神修養の際には「丹田呼吸」や「腹式呼吸」が薦められます。

ここで提案する身体教養は「身体を介した想念の自己管理」を目的としていますので、そのひとつのエレメントである「息」には「ブレス」という呼称を用いています。


想念のレベルでは、「言葉」は文字による表記や音による表音のツールではありません。
普段私たちが身体で感じるような実態感のある事実に成りえます。
例えば、痛いという言葉で痛くなり、苦しいという言葉で苦しくなり、嬉しいという言葉で嬉しくなります。
ですから厳密に言えば、あるひとつの言葉に対しても、私たちは知らず知らずに人生の過程で、それぞれが自分自身の体験をとおした印象や認識をインプットしています。そして言葉と共に、そのインプットした情報をもとに想起するイメージを核として、日々自分を構築しています。


そのため成功哲学では「言葉には創造する力がある」といい、言葉をどのように認識し使っているかという自己点検も、大切な成功への要素になっています。
そこで身体教養を養っていく過程でも、できるだけ一般的な手垢がついていない言葉を共有したいと願っています。
身体教養の息に関わる作法に、あえて「ブレス」というカタカナを用いるのは、日本語ベースの私たちにとって、外来語語源のブレスは比較的「非日常語」だからです。

一般的な日本人である私たちは「呼吸」という言葉を聞くと、無意識に「吸って、吐いて」「入れて、出して」という行為に大きく傾いています。
この原因のひとつは、漢字自体がもつイメージが共有されていることです。
例えば、呼吸の吸には吸い込むイメージ、そして呼には吐き出すイメージです。
さらにはそのイメージを「自分がする」という暗黙の了解がなされていることです。
日本文の殆どが「自分」を主語としていますから、「呼吸」と聞くと、その主語は自分になり、「自分が呼吸をする」というイメージを核とした行為に傾斜してしまうのです。

呼吸システムが自分主語の呼吸に一旦支配されると、体が本来持っている生理的レベルで行える呼吸システムに変換することが困難になります。
そしてその状態から脱しようと焦り、呼吸を意識すればするほど、呼吸は不自然になり、息苦しさが増してしまうという悪循環になります。


時には、その息苦しさの先に「本来の呼吸があるのだ」と信じて、息苦しさを修行課題として受け止めている方もありました。あるいは、自分の存在を自分自身が認めることができず、「無意識の自己否定」が息苦しさを感じることを止めてしまっていた方もありました。


そうした方々の体には「こじれた紐を解くようなアプローチ」を施します。
これは、禅の一喝のような有効性があり、肉体を自分から自由にします。
そうして肉体から湧き上がってくる天然自然の呼吸が実感できた時に、自我意識の抑制を乗り越えて、自分本来の「豊かさと穏やかさ」を肯定できた喜びに繋がります。

身体教養としての呼吸は、天然自然の風の動きのように吹き去っていくものであることが理想です。ですから、主語をその風そのものにするために「ブレス」という言葉を提案しています。



# by k56422 | 2022-07-19 13:48 | 身体教養・旧版 | Comments(0)

2:身体教養

私のそれは失敗談ではありましたが、30代から40代にかけて自分の体に起きた体験をとおして、心と体が繋がっているという実感をもったことは、「身体教養とは何か?」を考える上で、大きな糧になっています。

そして今では、「身体教養とは、身体を介して生涯育む、想念の自己管理が出来るようになるための教養」だという考えに辿りつきました。
この「想念」というものが私が体験した「心と体を繋ぐもの」であり、実は肉体の生命活動を良い方にも悪い方にも進ませる影響力をもっているということを確信しました。

人生のどの時点であれ「想念の自己管理」を修得することは、健康で幸せな生涯を完成させるための長期的な自己投資になることが予想できます。
つまり「想念の自己管理」が導く「健康な状態」は、大なり小なり世の人々が求める「成功論」と呼ばれる哲学的試みの第一段階と、同等の価値があるものだと考えることができるのです。


もう一つ、「想念の自己管理」を修得することは、宗教的修行課題の前段階でもあるといえます。
勿論、それ自体が宗教といえるものではありませんが、悟りを求めて修行するための準備段階として、時代や洋の東西を超えて、宗教的指導には「想念の自己管理」といえる初歩的な取り組みがあります。


人々の生活から宗教的な風習が薄れてきているように見える現代であっても、私たちは自然な自発的ニーズとして、素直で穏やかな自分自身を取り戻したいという気持ちを抱きます。そして、不思議と宗教的な精妙な霊域や自然に溢れた豊かな空間に、自分をゆだねに出かけます。
例えば現代的には、メディテーションなどの時間をとることや、リトリートなどの空間で過ごすことなどに共通するものではないでしょうか。

この「素直で穏やかな自分自身」を復元させるための要が「想念の自己管理」であり、
そのための身体教養のひとつである「息」の実習として「ボタニア・ブレス」を提案しています。


# by k56422 | 2022-07-17 22:53 | 身体教養・旧版 | Comments(0)

1:はじめまして。

はじめまして。
今日から「身体教養のススメ」と題して、身体教養という古くて新しい常識を提案していきます。


「身体教養」という言葉を始めて耳にしたのは、数十年前になります。
当時、親日家で日本公演によく訪れていたモーリス・ベジャールの言葉でした。

最盛期のジョルジュ・ドンに魅せられて劇場に通う中で、そのジョルジュ・ドンを魅了するベジャールの存在に興味が移行していきました。そして、彼の言葉として「身体教養」という言葉に出会いました。
彼は、「現代人に身体教養が失われてしまった」ことを憂いていました。

そのとき「私には身体教養がない」と直感したことを覚えています。
そして「身体教養が欲しい」と実感したことも覚えています。
けれども「自分自身が欲している身体教養というものが、具体的にどのようなものなのか」に思い至ることは、その時も、それから後の長い期間もできませんでした。


30代から40代の10年間ほど、私は自分の体が自分の思うようにならない苦しみと向き合うことになりました。たぶんその頃から、私は私の体を「自分の学習対象」としてみるようになったと覚えています。

そして「体と心は繋がっている」ということを鮮明に感じました。
さらに「体は、私の思いの間違いを引き受けながら健気に活きている」と実感しました。
つまり体が悪くなって苦しくなった原因は、日々に出る私の思いの間違いが積み重なって出来たもので、「体それ自体が不出来なわけではなかった」という事実にたどり着いたのです。

それどころか、コンピューターのようにフリーズしたり、文句のひとつを言うでもなく、黙々と私の人生に寄り添い、淡々と日々の生命活動をこなし、挙句に、私のやり場の無い不平不満の数々の思いを静かに抱きとめ続けてくれていました。そして、その献身的な苦労の末に、体自体が痛み苦しい状態に追い詰められていったのだと、ようやく気付きました。


それから数年後に、主人とともにアメリカでロルフィング研修を終了し、それまでの自分の間違いを元手に「人のお役に立つことができる道」に出ることができました。そこから更に約20年近く、沢山の方々の体に出会って、様々な経験をさせていただきました。

こうして今ようやく、ベジャール氏が投げかけてくれた「身体教養」について、思い巡らせることが出来るようになれたことを、心から嬉しく思っています。



# by k56422 | 2022-07-13 23:33 | 身体教養・旧版 | Comments(0)
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